礼拝と感謝の力

             ・・・・ 2015年1月13日 特別早天礼拝 父なる神の御心  富田慎吾師・新宿シャローム教会  より (許可済み)

                                                             2015 10月20日



  私たちは聖書のみことばを通して、父なる神様のみこころを受け取っていきたいと思います。 みなさん、主のみこころ というものをどのようにして私たちは知ることができるのでしょうか?
  私の親しくさせていただいている知り合いの牧師先生は、イスラエルに行きました。一週間 休みを取って イスラエルに行き、そこに”嘆きの壁”がありますね。そこの前に行って 座って、本当にとりなして祈っていたのですね。 その先生が イスラエルの神に切に願って、「主よ、イスラエルを回復してください。イスラエルをあわれんで下さい。エルサレムを あなたが立て直してください。」 そのように祈っていると、神様が、はっきりと心の中に、「あなたの心が立て直されていないのに、なぜ あなたは人をとりなすのか。」と語られ、そして 深く悔い改めをして、「そうです、主よ。 私はここをとりなす前に、まず 自分の心を立て直さなければなりませんでした。本当に、主との礼拝、親密な歩み、それが 欠けていました。」 そのように気付かされたのです。 さらにその先生は、「わかりました。私の心が立て直されなければならないのは 分かりました。 では主よ、この一週間で あなたの心を教えてください。主の みこころが知りたいです。」 主が答えてくださったのは、「わたしの心は 全部 ここに書いてある。」 イスラエルに行って、1日目に、「心を立て直しなさい。」、「わたしの心は全部聖書に書いてある。」と言われたので、その先生は 何をしにイスラエルに来たのか、日本でも それを知ることができたのに、と思って 残りの数日間を過ごした、という あかしです。

  みなさん、もちろんイスラエルに行っても、神の みこころを知ることができます。そこで見て、肌で感じて、そこでしか味わえないものがあります。 でも 日常生活、日々の生活の中で、私たちは主の心を毎日毎日 受け取り、悟り、その中を歩んでいくことができるのです。 その 主の心がどこに記されているかというと、みことばの中に記されています。 そして、これが主の みこころである、と書かれている箇所はたくさんありますが、今日は 一つの 重要な、これが 主が私たちに願っておられることである、と書かれている箇所をお読みしたいと思います。
  Tテサロニケ5章16節〜19節:  皆さんもよく知っておられる、私たちがこのみことばを暗記するほど知っているみことばだと思います。


    「いつも喜んでいなさい。 絶えず 祈りなさい。 すべてのことについて、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって 神があなたがたに望んでおられることです。 御霊を消してはなりません。」(Tテサロニケ5:16〜19)


  ここに注目すべきことは、18節、「これが、キリスト・イエスにあって があなたがたに望んでおられることです。 御霊を消してはならない。」 何とここには皆さん、『三位一体なる神、主』のすべてが出ています。 その 三位一体なる神が私たちに切に願っておられることは、この前半に書かれている、 いつも喜び、 絶えず 祈り、すべてのことについて感謝するということです。 続けて「これが」、原文では「これこそが」と訳される言葉になっています。
  だから、主の願い、主のみこころ は何かというと、「いつも喜び、 絶えず 祈り、すべてのことについて感謝する」ということです。

  どのようにして私たちはいつも喜ぶことができるのでしょうか? 私自身は、”24時間祈りの家”という所で導く情熱を 主は与えてくださり、そのような働きをしています。祈りの家においては、絶えず礼拝がささげられており、祈りがささげられています。 でも、チャレンジすべきことがあります。それは 日常の生活の中においても、その同じ「主を礼拝する心」があるかどうか、ということです。 一つの場所の、限られた礼拝の時間に礼拝することは ある意味においてやりやすいです。礼拝の環境があるからです。 しかし、生活の中ではどうでしょうか?本当に、私たちの家庭の中に不平不満が満ちているでしょうか?喜びが満ちているでしょうか? 職場の中に、不平、不満、怒りが満ちているでしょうか?それとも 困難な職場にあっても 喜びが満ちているでしょうか? 私たちの毎日の生活の中で、主ご自身を喜ぶということ、これはとても大切なことなのです。

  我が家で実行している一つのことがあります。 それは何かというと、タイマーをかけることですね。10分に一回タイマーが鳴ります。 10分に一回タイマーが鳴るごとに、食事をしていても、何か家族で作業していても、作業を脇に置いて、「主をほめたたえます。」と 神様を礼拝するのです。
  実は、ドイツのクリスチャンの医者がこのことを発明しました。 この箇所を読んだときに、「いつも」、「絶えず」、という聖書の言葉は どのくらいの間隔なのか?そのドイツの医者は 何度も研究を重ね、10分に一回の頻度が、「いつも」と言えるくらいの頻度ということでした。 その先生には生活の中に葛藤がありました。仕事をしている時、普通の日常生活をしている時、いつのまにか神様の臨在を忘れてしまう。そして これを実行するたびに、先生がやり始めたのが その 10分に一回のタイマーでした。仕事の途中であっても、いろいろな作業をしている時であっても、本当に短い、2秒、3秒の時間であったとしても、タイマーが鳴るたびに、神様に心を向け、主を礼拝するということです。
  2週間、3週間、その生活をするうちに、なんと その医者の先生を通して、超自然的ないやしが患者のうちにもたらされ、主ご自身が触れてくださり、不思議と患者がいやされるというみわざが起こり始めました。その先生は10分に一回、短い礼拝をささげ、このことを文章に書き記しました。

  それを読んだ人がいました。カナダのトロントブレッシングの、ジョン・アーノット(John Arnott)、キャロル・アーノットでした。彼らは ある時期に うつ的になってしまいました。 一時期リバイバルの働きに聖霊様が大きく注がれて、働きは用いられました。しかし いつのまにか、カンファレンスからカンファレンス、集会から集会、一つのメッセージをして また別のメッセージをする、あまりにも忙しい時が続きました。 そして何と、初めに持っていた聖霊様との親密さを失ってしまったわけです。その結果、2年間 うつ的になって働きができなくなってしまいました。それで 長く祈ることもできない、どうしたら良いか分からない、そのような状態の中で、イエス様が 特に、キャロルに語られました。それは、「わたしは あなたの5秒の時間でもほしいよ。 5秒の時間でも、あなたがわたしに『愛している』といったこと言ってくれるとき、わたしの心は本当に満たされる。」 主はそのように語られました。
  だから本当に短い時間でも、日々の生活の中で いつも神様ご自身を見上げて主を喜ぶこと、どうしたら良いのかを求めていた時に、このドイツの医者が書いたこの記事を読んだのです。そして10分に一回、短くても礼拝をささげることを 生活の中でやり始めました。それを2年間続けたのです。
  すると、聖霊の油注ぎが戻ってきたのです。 数ヶ月のうちに、神様との親密さが回復しました。 以前持っていた神様の語りかけ、以前受けていた語りかけ、以前持っていた油注ぎ がもう一度戻ってくるのを感じて、それを2年続けた後に、もう一度、主が リバイバルをもたらす器として、今 用いてくださっています。
  絶えず 神様を見上げて礼拝する歩みというものが大切です。

  モザンビーク(ケニアの南)で伝道活動をする ハイディー・ベイカー(Heidi Baker)という器がいますが、彼女の夫のローランド・ベイカーという器は痴呆症で働きができなくなっていました。ローランドベイカーも同じ報告を聞きました。彼は10分に一回神様を礼拝し、神様をほめたたえる生活を始めたのです。すると、痴呆症がいやされたのです。そして今 主のための働きが回復しています。



  みなさん、私たちは主を喜ぶ中で、本当に 神様の「御国」が開かれるのです。 毎日 神様を礼拝し祈るということは、御国が開かれる重要な鍵なのです。 だから私たちは、この場所に来て、朝の初めの時間に祈り、また あらゆる時に祈ると同時に、日々の生活の中で 私たちは 主を礼拝し、主を喜ぶ、そして本当に祈りの歩みをする、これはとても大切なこのなのです。
  これを実行して、私たちも家庭の中で 10分に一回タイマーをかけます。
  そして10分に一回、『神様、あなたは偉大なお方です。』と ほめたたえます。そして みことばを宣言するのです。申命記6章4節、5節です。これは聖書の中でも、最も重要なみことばの一つです。

    「聞きなさい。イスラエル。 は 私たちの神。 は ただひとりである。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を 愛しなさい。」(申命記6:4、5)

  さらにこのみことばが記されています。 「これをあなたの家の柱に 書き記しなさい。」 「あなたが家にいるときに、座る時にも、寝る時にも、どんな活動をしている時にも、これを口ずさみなさい。」と。 そして「これをあなたの子どもにも教えなさい。」

  そのように、みことばに記されています。
  だから、絶えずこれを口ずさむために、10分に一回タイマーが鳴るごとに、主を礼拝すると同時に、この申命記のみことばを 家族で宣言します。 息子もそのみことばを暗記して宣言しています。 わたしが家庭でお風呂に一人で入った時、息子がやってきて ”パパ、さっきお風呂は行っている間にタイマーが鳴ったから 感謝しておいたよ”と言いました。代わりに礼拝してくれたのです。 そのように家族全員で 絶えず 家庭の中で主を礼拝し、主を楽しむということ、これはとても大切な財産です。何かを持っている以上に、私たちは「主の臨在」を持っている、これがです。
  我が家で 宝 というと、家のどこをひっくり返しても宝はありません。ただ唯一、我が家が持っている宝は、主の臨在です。 実はわたしの家のことを言うと私は恥ずかしくなります。なぜなら人が我が家に遊びに来たりすると、6.5畳の部屋と廊下の家に住んでいます。 神様は心の中に情熱を与えてくださって、祈りの家を建て上げるという思いを与えてくださっています。私たちの教会は、東京の新宿という場所にあります。教会の近くに住んで、夜中でも、早朝でも、あらゆる時に仕えています。ただ一つ問題がありまして、新宿は恐ろしいほど土地の値段が高いです。マンションで2つ部屋がついているところを借りるなら、最低で15万円以上で、捜した結果借りられるのはワンルームなのです。そこに家族で住んで、決心して家族でそこへ引っ越しました。引っ越した最初の頃、息子が”パパ、前の家に帰りたい”と言いました。前はもう少し広い家に住んでいたのです。心が痛みました。 でも、そこで家族と生活して、祈りの家に仕える、狭い家ながらも、慣れてきてみんな楽しいのです。そして、そのように礼拝しています。 「喜び」というものは車に属するものではなく、「喜び」というものは家に属するものではなく、「喜び」というものは着る物に属するものではなく、「喜び」というものは食べ物に属するものではなく、本当の喜びというものは 変わることのない喜びは、主の臨在に属します。 主の臨在から 私たちに変わることのない喜びがやってきます。その「喜び」さえ持っていたら、私たちはどこに置かれても、家に住むことができることはものすごい特権です。

  第二次世界大戦のときの牧師の、ルーマニアの牧師が残した手紙ですが、彼は ナチス・ドイツ、またルーマニアの政府から捕らえられて、牢獄の中に入れられました。 牢獄の中で彼が日誌を残しましたが、寒かった、そこで食べるものがなかった、孤独だった、苦しかったと。私は毎日牢獄の中で、喜んだ。まず牢獄の真ん中に イエス様が共にいてくださるから。あるときは喜びを我慢することができなくて、その喜びが大爆発しそうになった。 そのような記事を残しています。
  また、中国の迫害された牧師。彼は刑務所の、誰もしたくない、下水道の中の 恐ろしいにおいがする、そのような下水道処理を、毎日毎日何時間もする。他の囚人が誰一人やりたくない所を彼は志願して、自らその働きをしました。 しかし彼はその記事に、私はその下水道の仕事が本当に幸せで、その臭く、汚い所が 私にとって天国のような所だったと。 なぜなら毎日その掃除をしながら 他の人々が来ない場所なので、一日かけて 主を礼拝し続けるのです。 そして牢獄に帰っても、体があまりにも臭いので 誰も近づいてこないのです。 だから本当に 絶えず主を礼拝する環境が与えられたと。 本当に幸せだったと。
  みなさん。私たちの幸せとは、イエス様に属しているのですね。 イエス様から私たちに、変わることのない喜びというものがやってきます。 喜びに対して人々は条件をつけます。 お金があったら喜びます。何か必要が満たされたら喜びます。夢がかなえられた時に喜びます。 そうではありません。 「いつも」という言葉はどういうものでしょうか?それは、「いつも」です。 私たちが 何かが与えられ、最も力強く立ち上がっているとき、でもこの「いつも」という言葉の中に、失望し、落胆する時も含まれています。攻撃の中に、戦いの中にある時にも、「いつも」という言葉は含まれているのです。 いつも喜ぶこと、これが 主の願いです



  すべてのものが失われた時、私たちの口から出てくるものは何でしょうか?
  ダビデは全部奪われたんです。 地位も、名誉も。 かつてはゴリアテを倒して、その後戦いに出て行って、イスラエルの中でヒーローになりましたね。 ダビデは「万を打った」と。「サウルは千しか打っていない。」 このような表現がされるようになったのです。 ダビデはイスラエルの中では最も人気者。そしてサウルの娘を妻として頂いたのです。 みなさん、一人の羊飼いが、王国を受け継ぐ、王宮に仕えるものに変えられたのです。 国の中で最も注目される者、家族からも注目されていない一人の少年が、国家の中で最も注目される者へと変わったのです。
  しかし、それに ねたみを覚えたサウルは、彼の命を狙いました。 ダビデは全部失って、妻も置いて、着ている物だけで逃亡しました。 逃亡した先で、今度は ペリシテの王アビメレクが彼を迎えにやって来ます。その時イスラエルとペリシテは戦争していたので、彼がその王の前に立たされたとき何をしたかというと、ダビデは最終手段、人間ができる一番最後の方法をとります。 それは、よだれをたらしながら、壁を引っ掻き回し、柱を引っ掻き回して、気が狂った者を装ったのですね。つまり彼はそこで、全部を失いました。 少し前の時間に家族を失い、王宮を失い、国からは犯罪者として命を狙われる、逃げた先では、持ち物が何もないにもかかわらず 今度は プライドを失ったのです。 頭が狂ったものを装って、自分の尊厳は何もかも無くなりました
  全部がなくなった時に、彼の口から出てきた言葉は何でしょうか? それが 詩篇34篇に書かれてある言葉です。

    「私は、あらゆる時に をほめたたえる。 私の口には、いつも、賛美(ほめ歌)がある。」 (詩篇34:1)

  これはダビデがアビメレクの前で気が狂った者を装った時の賛歌です。 みなさん。全部失った時、何もかも無くなった時に、彼の口から出てきたものは、賛美だったのです。礼拝だったのです。への感謝だったのです。 つまり何が言えるのかというと、世の王たち、世の権威者たち、世の 鼻で息をする者たちは 彼から持ち物を全部奪うことができました。 彼の持っている 名誉や 評価まで奪うことができました。 しかし、この世のどんなものも、彼から奪うことができなかった唯一のものがあるのです。 それは、主との「愛」の関係です。 を礼拝する、イエス様を礼拝する、神様を礼拝する、ということは この世のどんな者も奪うことができないものなのです。 高さも、深さも、造られたものも、どんなものも、キリスト・イエスにある「神の愛」から 私たちを引き離すことはできない。これはパウロが語った本当に重要な真理です。 みなさんはイエス様を心の中に受け入れているなら、もう あきらめてください。 お手上げだと言って下さい。 もう私たちは自分で、悩みを持って、失望を持って生きることを 主よ、やめます。 お手上げです。 なぜならこの世のどんな者がやって来たとしても、あなたの愛はそれに勝るものだからです。 あなたの愛は、すでに それに打ち勝っているからです。あなたの愛からどんなものも引き離すことはできないから、私はこの愛を知っている。それゆえに、「圧倒的な勝利者」とされていることを感謝します。 だから主よ、私はそれを放棄します。怒りの思いを持ち続けることを手放します。赦せない思いを持つことを手放します。この悩みを持ち、抱え続けることを手放します。 そしてあなたを礼拝します。
  私たちは礼拝する時 手を上げますね。 それは本当に、主よ 放棄します、全部 あなたに明け渡します、その姿勢です。 私たちは、いつも喜ぶ時、その中に 主が働かれます。 そしてその中で私たちは、絶えず祈るという生活の中に入っていきます。 一つだけこの朝憶えたいのは、祈りというのは、皆さん、「楽しみ」です。祈りは 主との親密な関係です。 祈りというのは 主と交わって、主と愛の関係に生きるということです。
  それなので、主に 親密に語りかけるということ、『お父さん、あなたの心を教えてください。』、『お父さん、あなたと一緒の歩んで行きたい。』、『お父さん、あなたを愛している。』、 『聖霊様、あなたを歓迎いたします。』、「聖霊様、本当にあなたを愛しています。』、『イエス様、あなたを求め続けます。あなたを愛しています。』 そのような愛の語りかけが必要です。 皆さんはどういう家に帰りたいですか? 家に帰ったら要求ばかりされる。忙しく働いて帰ってきたにもかかわらず、早く何か買ってきて、早くあれをやってちょうだい、と妻から要求される、牛乳買ってきて帰ってきたら、自分でお風呂沸かして入ってちょうだい、ご飯できたから自分でご飯運んで、食べ終わったら全部片付けなさい、今月これだけのお金が足りないから明日振り込んで、・・・ そのように要求ばかりされるんです。皆さん、そういう家に帰りたいでしょうか?次から次へと要求される場所、もちろん要求されることも喜びかもしれません。でも どういう家に私たちは帰りたいかというと、あなた帰ってきた と家族みんなが迎えてくれる、そのような家に帰りたいですね。
  同じように、私たちの祈りの生活は、へたをすると、いつも”要求”ばかりです。 主よ、あれしてください。主よ、これしてください。 主よ、本当に足りません。 早くやってください。あなたが動いてください。 この時まで 絶対このことをしてください。 あなたがしなければだめです。なぜしないのですか。 と 怒り始めるのです。
  もちろん要求することも重要です。 でも、主が教えてくださった祈りは、言葉数が多ければ聞かれる祈り とは言われていません。それは 異邦人の祈りであると。でもイエス様が教えてくださった祈りは、祈る時はこのように祈りなさい。

  「天にいます わが父よ。」 皆さん、私たちには 主を「お父さん」と呼ぶ特権が与えられているのです。 「父」と呼ぶことができるということは、主との親密さに入ったゆえに起こるできごとなのです。 そして、「あなたの名が ほめたたえられますように。」 私たちは祈りの中に入ってまず、主を礼拝するのです。主をほめたたえるのです。主に感謝をささげるのです。 イエス様と親密に歩む中で何が教えられるかというと、父なる神様の心が日々私たちの生活の中に開かれていきます。 教会においても、24時間祈りの家の中が私にとって一番麗しい場所です。そこに真夜中に行ってひざまずき、”神様、あなたの心を教えてください”、と 時間をかけて祈る時に、主が 語りかけてくださいます。試練や、困難や、問題の真っ只中にあっても、主の慰めがやってくるのです。本当に悔しい経験をすることがいっぱいあります。悪く言われることがあります。神様の義があるにもかかわらず、本当に非難されることがあるんですね。 でもその時、非難によってやり返すのではなく、一番の解決方法は、皆さん ひざで勝負することです。主の前にひざまずくのです。 そして神様の前に祈る時、神様の心を与えてくださいます。そして心を自由にしてくれるのです。 そうだ、私が「義」になる必要はないと。私が別に 正しい必要はないと。 もちろん正しさは主が与えてくださいますが、”私”が 人々から正しい者と言われる必要はないと。 ただ唯一、主は、主よ あなたご自身ですね、と。あなたがされたいことをしてください。あなたの勝利が現されますように。あなたの心が現されますように。 そのように祈ります。



  先日も、ひざまずき礼拝していると、神様は一つ一つみことばを開いてくださるのです。 山上の説教の箇所を主は開いてくださいました。わたしの心を知ってほしい。もし敵がいる時 あなたはどのようにしなさい と。 右のほほを打たれたら 左のほほも出しなさいと。迫害されるならやり返しなさいとは書かれていません。 迫害する者のために祈りなさい、と書かれています。自分の敵を祝福しなさい。 また、ローマの12章の中には、「悪をもって、悪に立ち向かってはならない」と。「むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」。 さらに詩篇34篇において、ペテロの手紙にも引用されていますが、 「いのちを愛し、の幸いを味わいたいと願うなら、あなたの口に悪口を言わせるな。」と書かれています。「あなたの口を、批判のために使うな。」と。
  そうです。もし私たちが 主の臨在を絶えず歓迎し続け、主の臨在の中を歩みたいと願うならば、皆さん、この口をもって 非難すること、批判すること、復讐することを 放棄しなければならないのです。 詩篇15篇の中、詩篇24篇、34篇の中、継続的に聖書にかかれてあることは、「誰が主の幕屋の中に住むことができるだろうか。 誰がその聖なる山に立つことができるだろうか。」 そこにかかれてある重要な条件の一つは、「心の中に、本当に神様を求める。神様の義があること。神様の義が生きていること。」 そして もう一つの重要な条件は、「あなたの口に悪口を言わせてはならない」とあります。 隣人を批判してはならない。 そうです。 口の言葉と、主の臨在は、密接に関わっているのですね。 だから私たちは主のと親密さの中、主の臨在の中に立って絶えず生きたいと願うなら、この口を守ることです。

  とりなし手 というのは、絶対に守らなければならないものがあるのです。 家庭のこと、教会のことを祈る前に、地域を見張って祈る前に、国を私たちは見張り祈る前に、最も見張らなければならないのは、わたしたちの心です。 箴言4章23節に書かれているとおりです。「力の限りを尽くして、あなたの心を見張れ。いのちの泉はここから湧く。」 ではどのようにして私たちは心を治め、守ることができるのでしょうか? それは、「礼拝」と「主をほめたたえる」、主との祈りの関係によってです。私たちは祈り、礼拝する時、主の平安が わたしたちの心を守ります。

  そのように、ぜひ、早天の祈り、礼拝を続けると同時に、私たちが今日一日 決心して、今日の生活の中で主を礼拝する、家で家事をしながら 不満を言うのではなくて、そこを礼拝所にするのです。 職場に行って、難しいことがいっぱいあるかもしれません。上司から小言を言われるかもしれません。しかしその難しい職場の中で、私たちは主を礼拝する。


  このようなあかしがあります。 台湾で変革が起こっていますね。
  一人のクリスチャンは 職場で礼拝し始めました。 職場で礼拝して、職場で神様をほめたたえます。 仕事が始まる1時間前に行って礼拝するのですね。みことばを10章以上読み、宣言しながら職場のために祈ります。 神様が答えてくださったのは、「あなたの職場の中に、あなたの部署の中に、不正がたくさんある。だから不正を正しなさい。」 そのように言われました。 ある人は遅刻してくる。税金が不正に使われている。改善しなさい。 そのクリスチャンが職場で祈り始めてから、職場の一つ一つの不正を改善していったのです。それで彼が祈っていると、職場の会社員たちがやってきて、何をやっているのかと。私は毎日、実は 一時間前に来て礼拝しています。すると、彼らは、私たちも加わりたい、と言ってきました。なんと、加わり始めたのです。そしてその部署が本当に改善されていったのです。部署の中で全員がやって来て、毎朝1時間、クリスチャンではない人たちです、みことばを開き そのクリスチャンがリードする中で一緒に礼拝するのです。 するとその部署だけがものすごい勢いで業績が伸びました。 すると、社長が業績を見ていて、この部署はいったいどうしたのか、その部署で何がされているのか、と聞いたところ、何と一人のクリスチャンがこのようなことをし始めましたと。それは礼拝し、みことばを読んで、それ以来部署が変わったんですと報告しました。すると社長は、クリスチャンではなかったのに、そんな良いことならばなぜ会社全員でやらないんだ、ということで、なんと会社全体で、朝1時間の「礼拝」をするようになったのです。 クリスチャンでない人たちが、そのクリスチャンが導く中で、礼拝し、祈り、みことばを開いて 一日の仕事が始まるのです。 日々臨在の中に入るので、その中で次々と イエス様を信じる者たちが職場の中で起こされていったのです。 彼らは地域の教会に遣わされて行きました。牧師に初めて教会に来ました、と言うと、牧師は「イエス様を受け入れますか」と聞くと、「すでに信じています」と答えます。牧師は驚きます。 「みことばを読んだことはありますか。聖書の読み方を教えましょう。」 「毎日10章以上読んでいます。」 牧師は驚きます。「私の信徒でもそれだけ読んでいる人はいない。」 「では わかりました。祈りの仕方を教えます。」 「毎朝 1時間祈っています。」 すると牧師は驚きます。「私でも、1時間祈っていない。」と。 なんとこれが、本当に起こっていることなのです。職場の中で、人々が 弟子訓練を受けて、教会に送られることが、台湾で起こっているのですね。

  皆さん。私たちは「宮」で礼拝することが絶対に重要です。 それはいのちの源泉です。 そして私たちは、家庭の中で礼拝し、毎日の生活の中で 主の臨在を歓迎することができるからです。学生であれば 学校の中で礼拝し、職場に仕える人であれば 職場の中で礼拝するということ、これもまた同様に重要なことなのです。
  私たちの祈りのグループの中で、ビジネスマンもいるのですが、千葉でカフェをやっているオーナー夫妻がいるのです。 彼らは金曜日の徹夜祈祷に必ずやって来て、一晩かけて祈ります。他の日は毎朝1時間みことばを読み、祈りをもってカフェをオープンします。 そして 店に来るお客さん全員に 手を置いて祈ることを あるときからチャレンジし始めました。そして去年の5月からは 主の導きがあれば、来るお客さんに福音を伝えて、イエス様をあかしするということを始めました。 すると、去年 5月から12月までの間に、福音を伝えた人たちの中でイエス様を受け入れて信じた人々、一緒に告白をして祈った人は、なんと 723人になったそうです。 ただ福音を聞いた人ではなく、イエス様を信じる告白、祈りまでした人、それが723人です。 教会の中で起こっていることではありません。職場の中です。 町の中でもそのことが起こります。 私たちは生活しているすべてのところに神様の臨在を運ぶ者たちです。その私たちがするライフスタイルは何かというと、 「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」ことです。これこそが、神が私たちに願っておられることなのです。今日この歩みをもって、ここから遣わされて行こうではありませんか。
  最後に一言お祈りいたします。





  (筆者追加)


  ・ 9月末からヨベルの年が始まって、米国で救われた、あるいは 外国にいたクリスチャンたちが、(多くの場合あまり快適でない形で、)日本に帰国しています。(ヨベル ・・・ 解放の年、自分の土地に帰る年) この 1/13の「礼拝と感謝」のメッセージは、この人たちにとってタイムリーなメッセージだと思われます。 神様は、本当に主に聞き従う 日本のリバイバルの器たちを集めておられます。

  ・ 8月に亡くなられた滝本明師は 残念ながら霊的見分けでは良くなく、聖霊様に聞くのではなく 人間的に行動していたためと思われます。(「救い」を失ったか?)
  一方、福音派の重鎮の「伝道者」だった 本田弘慈師は 見分けでは良いです。(霊的良し悪しは 死亡と同時に固定されます。) 彼は 「五役者(五職)」のうちの「伝道者」の召しに忠実であり、伝道者だったので、カリスマ(いやしや預言などの「御霊の賜物」)の働き無しに多くの人々が救われました。 そのため主は、彼が長い間”反カリスマ”の立場にいたにもかかわらず、悔い改めの機会をお与えになり、○谷姉妹を通して 死ぬ前に”反カリスマ”を悔い改めました。 終わりが良ければ すべて良しです。

  与えられた召し・賜物に忠実であり、聖霊様に本当に聞き従う器たちを、主は 導いておられます。


     「あなたは正しすぎてはならない((直訳)義であり過ぎる必要はない)。 知恵がありすぎてはならない。 なぜ あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(伝道者の書7:16)

     ・・・ ”高慢”だけは どうしても砕かれなければならない罪です。(ヨブ40:8・自己義認、ヨブ42:1−5・知的高慢) サタンは”高慢”によって 天使長から落とされました。(イザヤ14:12−15) 「原罪」とは、神の立場をとって 良し悪しを規定する性質です。(創世記3:22)
  この根深い人の罪の赦しのため、御子イエス様は、どうしても十字架にかからなければならなかったのです。(人が神になることは罪。 しかし、神が人として来られたことは 救い。) 「キリストを着る」ことにより神の目から見て 完全に「」とされます。

     「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

     ・・・ 比べものにならないほど高いと言っています。早々に に対して降参すべきです。

     「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの。そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。 神を愛する者のために、 神の備えてくださったものは、みな そうである。」(Tコリント2:9)
     「私のことばと 私の宣教は、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と 御力の現れでした。」(Tコリント2:4)
     「なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」(Uコリント12:9、10)

     ・・・ (当時の)博学で雄弁なローマ市民権を持つユダヤ人で、エリート中のエリートだったパウロが、実に このことを言っています。





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